パリにあるとっておきミュゼをご案内します
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象徴主義の先駆者、モロー ギュスターヴ・モロー美術館 Musée National Gustave Moreau

先週はモローのおいたちをざざーっと述べておいて、意味不明なことばで乱暴にまとめてしまいました。

特に最後のこの文章、

でもアカデミーという権威と深く関わったモローだからこそ、世紀末に向かう不安な時代精神を感じつつ、神話や聖書を扱う歴史画のカテゴリーの中でのオリジナリティの模索というかたちで、モロー独自の「象徴主義」の萌芽ともとらえられるような作品が生み出されたのかもしれません。

太字のところをご説明したいと思います。

アカデミーでは、ギリシャ神話や聖書の物語を題材にした歴史画というジャンルが一番絵画として素晴らしいとみなしていました。
モローの作品の題材はほとんど神話や聖書からとられています。
なのでアカデミーの推奨するやり方に忠実なんですね。
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『ジュピターとセメレ』建築物や人物の細かな装飾がふんだんに描かれています。
でもこちらをご覧ください。
どちらかというと「世紀末芸術」と言うのにふさわしい、神秘的で暗くて退廃的な雰囲気が見られますよね。
アカデミーの歴史画にありがちな、威風堂々とした理知的で魂を奮い立たせるようなエネルギーはここから感じられません。

アカデミーのお手本通りの作品を作り続ければいいというような画家ばかりだったら、みーんな同じで芸術は停滞しつまらないものになってしまいます。
この時代は特に、お手本というものがあるけれど、そこから離れすぎず、いかに自分らしさ、オリジナリティーを出せるかというところで勝負しているのです。

あれだけアカデミーに関わったモローはやっぱり歴史画のお手本から出発しているけれど、時代の不安な空気も察知しつつ、自分らしい作品を作り続けて行ったのだと思います。
それがたまたま世紀末の時代精神とマッチして、のちに「象徴主義」ができたときに、ギュスターヴ・モローが先駆者だと言われたのではないでしょうか。

今のお話は私のひとつの見方でしかないのですが、とにかく、「**主義」というのは「主義」と名付けられるだけの実例があって初めて命名されるのだし、今の時点から過去にさかのぼるものですので、アカデミーにどっぷり浸かっていたモローが、アカデミーに反発して「象徴主義」をつくるぞー!と意識的にやったとは思えないのです。後から見た結果「象徴主義」の先駆者とみなされただけなのでしょう。

理屈っぽくなりましたが、それでは作品を観て行きましょう。
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『オイディプスとスフィンクス』彼が38歳のときのもの。ニューヨークのメトロポリタン美術館蔵だそうです。

こちらはナポレオン3世が買い上げたサロンで入選した作品です。怪物のスフィンクスが「朝は4足、昼は2足、夜は3足で歩む物は何か?」と未来の王になるオイディプスに謎掛けをする神話です。
確か答えは「人間」だったと思います。赤ちゃんがハイハイをし、その後は2足歩行、でも老人になると杖を使うので3本、という...。
ここに世紀末の雰囲気がどのように表れているかというと、謎が解けなかったらオイディプスは殺されてしまうという「死」に対する緊張感(実際答えられずに殺された人物の足が右下に見えます)。男性のオイディプスが妖艶な「エロス」を感じさせるところ。
背景がどんよりした「幻想的な空間」であるところ、でしょうか。

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『プロメテウス』こちらはモロー美術館で見ることができます。
43歳のときにサロンに出品したものの、酷評を受けてその後サロンにしばらく出品を拒否するきっかけとなった作品です。
土から人間を作ることができる巨人族のプロメテウスが火神から炎を盗んで人間に与えてしまったので主神の怒りを買い、鎖でつながれて肝臓を鷹に永遠についばまれるという神話です。
神話は神話でも残酷な話ですよね。
空の青さと対照的な険しい断崖絶壁に捕らえられて身動きできないプロメテウス。
彼はどこかをじっとみつめていますが、これから一生、こんな寂しい場所で邪悪な鷹に肝臓をついばまれていくしかないのです。
強い意志のあるまなざしやたくましい肉体がかえって、悲しい結末を予感させますね。

ちょっと長くなりましたので、来週もっと注目したいモローのオリジナリティについてお話しして行きたいと思います。

今回の画像はすべてWikipediaからお借りしました。


ギュスターヴ・モロー美術館 Musée National Gustave Moreau
住所:14, rue de la Rochefoucaud
電話:0148 74 38 50
メトロ:12番線 Trinite または st-George
開館時間:10:00-12:45 昼休みをはさんで 14:00-17:15
休館日:火曜日
入場料:5euros (割引は3euros、18才以下と第一日曜日は無料)
美術館公式サイト
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by paris_musee | 2009-12-21 00:00 | 邸宅ミュゼ
モローの華々しい一生 ギュスターヴ・モロー美術館 Musée National Gustave Moreau

日本では印象派絵画が絶大な人気を誇っていますが、意外と世紀末芸術なんかも人気があるような気がします。
私が昔働いていたアートショップでは、クリムトの『接吻』のアイテムが売れていたし、アール・ヌーボー(こちらは美術工芸の「世紀末芸術」と言えます)のエミール・ガレの花器なんかは結構日本のコレクションが充実していたりします。

ギュスターヴ・モローの人気はどうなのでしょうか?
実はパリのモロー美術館でも、日本語の作品解説パネルがあったり、日本語バージョンのカタログなんかもあって、小さい美術館なのに日本人の観客が多いんだなと思いました。
ルーヴルにもオルセーにも作品があるので、名前は知らなくても作品をご覧になったことがある人は多いのかもしれません。

先週「象徴主義」は権威的なアカデミーへの反発としておきた、とご説明しました。
でもギュスターヴ・モローという人は「象徴主義」の先駆者と目されているので、アカデミーに反発するどころか、人生の大半をアカデミーとともに歩んでいます。
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ギュスターヴ・モロー若かりしときの自画像。モロー美術館に展示されています。
1826年。パリで建築家の父と母の間に生まれます。
8歳のときから絵を描きまくっていた絵画少年だったようです。
お姉さんが亡くなるとショックのあまり健康を害して名門の中学校を中退してしまいます。
15歳のときに初めてのイタリア旅行に出かけました。イタリアは当時芸術のメッカだったので、いろいろな刺激を受けたのでしょうね。
そしてパリに戻ると新古典主義の画家に師事し、ボザール(フランスの芸大)に入学します。
このボザールこそがアカデミーの総本山なんです。
23歳でローマ賞(優秀な芸術家をイタリアに留学させる制度)を逃してしまいボザールをやめるとルーヴル美術館で模写に励みます。当時のルーヴルにもアカデミーのお手本のような作品がたくさんありました。
25歳のときに、テオドール・シャッセリオーというサロンの常連の画家と出会いとても仲良くなり、ピガールにアトリエを借りて精力的に作品制作をします。

翌年ついにサロンに入選。そして現在の美術館の場所に両親が家を購入して家族で住みます。アトリエもこの家の最上階に構えました。
サロンに入選したことでやっと画家として認められたモロー。すでに画家として有名人だった親友シャッセリオーと一緒に社交界にも頻繁に顔をだしていたそうです。
しかし30歳のときにシャッセリオーが亡くなると、数ヶ月家に引きこもり、翌年からイタリアに旅立ちます。
ローマ、フィレンツェ、ミラノ、ヴェネツィア、ナポリで、アカデミーがお手本としていたミケランジェロやゲロネーゼ、ラファエッロなどの作品を模写しまくったそうです。
ちなみに、のちに「印象派」の画家として有名になるエドガー・ドガとイタリアで出会い、親交を深めます。
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写真が小さくて見にくいですが、こちらがギュスターヴ・モローが住んでいたアトリエ兼住居。4階建て。現在はモロー美術館となっています。
36歳のときに父が死去。
それでも精力的に作品を制作し、2年後にサロンで再び入選。作品はナポレオン3世の買い上げとなり、翌年には皇帝自らコンピエーニュのお城にモローを招待するという光栄にあずかります。
しかしその後サロンに出品した作品が酷評をうけると、しばらくサロンに出品するのをやめてしまいます。
40歳で再びサロンに出品、レジオンドヌール勲章をもらい、1878年のパリ万博にも作品を出展しています。
57歳でまたもやレジオンドヌール勲章を授与されました。
画家としての成功を社会が認めた証拠ですよね。
58歳で最愛の母が亡くなります。
62歳のときにボザールアカデミーに入ることを許され、4年後に教授としてボザールで教鞭をとります。日曜日には生徒を家に呼んだりして、教育熱心な教授だったようです。ちなみにのちに活躍するルオーやマチスもそんな生徒のひとりでした。
1895年、結婚をしなかったモローは、自分の死後作品がバラバラになってしまうことを心配して自宅を大改造します。住居部分を大きなアトリエに改修して、作品をまとめたり選んだり、手を加えたりして晩年を過ごしたそうです。死後にモロー美術館として公開するために。
1898年、モローは72歳で亡くなりました。お葬式は近所のトリニテ教会、お墓はこれまた近所のモンマルトル墓地にあります。
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モローの自画像デッサン。モロー美術館には壁に特製のデッサン棚が作られていて、膨大な数のデッサンも観ることができます。
ざっと年代順に見てみましたが、「象徴主義」の画家と言われなければ、華々しくアカデミーとともに活躍した新古典主義の画家の一生と思うかもしれません。
ボザールを出てイタリア留学、サロンに入選、レジオンドヌール勲章を授与され、最後はボザールの教授としてアカデミーに返り咲きですものね。

でもアカデミーという権威と深く関わったモローだからこそ、世紀末に向かう不安な時代精神を感じつつ、神話や聖書を扱う歴史画のカテゴリーの中でのオリジナリティの模索というかたちで、モロー独自の「象徴主義」の萌芽ともとらえられるような作品が生み出されたのかもしれません。

ちょっとわかりにくい言い回しになりましたが、来週具体的な作品の解説とともにモローの立ち位置がこうだったんじゃないかなーという私の考えをお話ししてみたいと思います。

今回の画像はギュスターヴモロー美術館の公式サイト、およびWikipediaよりお借りしました。


ギュスターヴ・モロー美術館 Musée National Gustave Moreau
住所:14, rue de la Rochefoucaud
電話:0148 74 38 50
メトロ:12番線 Trinite または st-George
開館時間:10:00-12:45 昼休みをはさんで 14:00-17:15
休館日:火曜日
入場料:5euros (割引は3euros、18才以下と第一日曜日は無料)
美術館公式サイト
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by paris_musee | 2009-12-14 00:00 | 邸宅ミュゼ
<印象派の殿堂 オルセー美術館 Part 2 Musée d'Orsay>
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前回紹介できませんでしたが、オルセー最上階の時計のクローズアップ。パリとオルレアン間を結んでいたことが刻まれていますね。

日本で一番人気の画家って誰なんでしょうか。
ゴッホ?ゴーギャン?セザンヌ?ルノワール?マネ?モネ?ドガ?
ここに挙げた画家の名前を聞いてピンと来る人はかなり多いと思います。
日本人にとって、これら印象派の画家はとても身近なものではないでしょうか。
理由はいろいろあると思うのですが、やっぱりルネサンスや17世紀、18世紀の絵画よりも、「作品を観るために必要な基礎知識」といったキリスト教の世界観、近世の政治史などなくても観られる気軽さがウケているのだと思います。
日本に育った以上、特別な理由がなければ『最後の晩餐』の登場人物やエピソード知っていたり、宮廷画家が描く王一家が誰なのかわかる人は少ないですものね。

日本でも上野の森やそこかしこでゴッホやセザンヌ、モネなどの作品を観る機会は結構あるのですが、もしパリで印象派の作品をみたいならば絶対に「オルセー美術館」を外すことはできません!
右を見ても左を見ても印象派だらけ、一級品の作品に囲まれて嬉しい悲鳴をあげてしまうようなところです。
でもやはり貴重な作品ばかりで、観たい作品が貸し出し中になっていることも多いので運を天に任せましょう。
それでも十分な量の作品と向き合えるので絶対に損はしません!

来週、この美術館の中でとりわけチェックしたい作品をご紹介しますが、今回は「印象派」全般のマメ知識をお話ししたいと思います。
まず、印象派は19世紀後半にフランスでおこった芸術のムーブメントです。(音楽などでも印象派と呼ばれるものがありますが、ここでは美術のみお話しします)
そして覚えておきたいのが、当時支配していた「**でなければいけない」という決まり事への反発です。
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こちらカバネルの『ヴィーナスの誕生』という作品。アカデミー常連の彼の描く作品は採点基準をクリア!生身の人間以上に完璧なデッサン、裸体だけどヴィーナスなのでよし、上品さが貴族好みなどなど。
19世紀前半まで、絵画にはいろいろな決まり事がありました。
「そっくりに描かなければいけない」「歴史的事実を描くといい絵と言われる」「エロチックな裸体は描いてはいけない(裸体を描く時は宗教や神話の登場人物とする)」「貴族やブルジョワ趣味の絵がすばらしい」などなど。
そしてその「いい絵」であることを決める団体が美術アカデミーでした。
この団体が毎年サロンと呼ばれる展覧会を開き、そこに展示できる選ばれた作品がちまたで評価されたのです。
サロンへ出展できることが若手画家のキャリアの第一歩であり、さらに一番すばらしい絵を描いた画家にはローマ修行旅行の特典がありました。
ところが、とにかくそっくりに描くことや、いろいろな決まり事を守った作品ばかりが選ばれるのですから、画家の方も知恵をつけて選ばれるための作品しか描かなくなって行きました。
新しい技法、面白いモチーフを描いた自由で生き生きとした作品は評価されなかったので、描くだけムダでした。
大げさですが、アカデミーは保守化してみんなおんなじ、どれもこれもやっつけ仕事のつまらない展覧会になってしまうのです。

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こちらはマネの『草上の昼食』 アカデミー的にダメだった減点ポイントは、その辺にいる女性の裸体=下品、よくあるピクニックの風景に裸体=低俗、色の塗り方が平面的で本物っぽくない=ヘタクソ。
印象派の父なんて呼ばれているエドゥワール・マネの代表作『草上の昼食』は、アカデミーによって下品でへたくそと判断され落選します。
森の中の裸体表現は過去にもたくさんあったのに、マネの裸体が神話や宗教上の登場人物ではなく、生々しい普通の女性というので却下されたのですね。
そしてマネの特徴でもあるのですが、奥行き感のない、ペッタリした2次元的な感じの塗り方が「ヘタ」の烙印を押されてしまったのです。
当時の絵は、陰影がついててあたかも本物がそこにあるような遠近感のある写実的な絵が主流でした。

この絵は、そのとき落選した他の作品とともに落選展という展覧会に出品されました。
目的は「ほら、この人たちの作品はサロンに落選しても仕方がないダメな作品ですよね」と念を押すためで、実際美術批評家をはじめ観客は「そうだ、そうだ」と嘲笑したのだそうです。
でも、一部の人は「まてよ、これは新しい時代の絵画を牽引するような鋭い視点を持っている!」と評価しました。

こうした既成概念を打破するような新しい作品への支持が次第に高まり、アカデミーの保守化した体制への反発も強まり、いよいよ印象派の画家たちが自由に作品を描いてもいいという土台が作られるのです。

ちなみに、19世紀後半に写真技術が発表されたことも、印象派の登場に一役買っています。
というのも一瞬のうちに現実の世界をそっくりそのまま写し取ることが可能だとわかったので、何日もかけてそっくりそのまま描く写実的な絵画への必要性もなくなっていったからです。

マネのスキャンダラスな作品のおかげで、19世紀後半から絵画の(アカデミーの)既成概念を無視したこだわりの絵画を描く若手画家が急増し、印象派と呼ばれるほどのムーブメントが起きた、というわけです。

今の視点から印象派の作品観るとその革新性が霞んでしまうのですが、写真も一般的ではなかった当時の人の気持ちになって観てみると「まあ、こんなモチーフを絵画に!?」とか「ちょっと、こんなブツブツができた肌なんてあり得ないわ!」とか「この荒々しい筆遣いが邪魔だ!」なんて思うかもしれません。
眉を潜めてしまうようなことが、だんだんと印象派の新しさ、生き生きとした作品として評価されて行ったのです。
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by paris_musee | 2009-02-23 00:00 | 有名ミュゼ